2011年11月29日火曜日

アファーマティブ・アクションって

 何をプレゼンに取り上げようか迷った結果、アファーマティブ・アクションについて取り上げてみることにしました。アファーマティブ・アクションというのは日本では「女性の機械不均等に対して積極的に是正のための介入をしていくこと」というように理解していいようでした。いくつか辞書なりWikipediaなりを読んだ結果。
なぜこれを選んだかというと、たまたまこの単語について知る機会があって、少し調べてみると実はけっこうあちこちで行われているようで興味を持ったということ、そして九州大学の理系学部が後期入試に女子枠を設ける計画を出してそれについて批判が集まったという記事を見かけたことが大きな要因です。


まず当該大学の理系学部の場合について二方向から考えてみます。
①女子枠を設けたのは正しい判断であるという立場で考える場合
  [1]そもそも理系には女子学生も女性教員も少なく、女性教員を増やすためにはまず学生を増やす必要性がある。それは即ち女性の社会進出に繋がることである。
[2]名のある国立大学が先立って女性の労働環境の改善に対してアクションを取ることは有益である。
[3]公務員における女性の労働環境は民間よりも現状優れている。国立の大学法人もそれに習うべきである。
[4]性別によって優れた女性研究者が世の中で活躍できないで埋もれている可能性。
[5]学歴社会的傾向のある現代において女性が学歴を取得することは労働環境改善や社会進出において有益なことである。
今のところ思いつくのはこのくらいでしょうか。


②女子枠を設けるのは正しい判断ではないという立場で考える場合
[1]男子受験生に対する差別である。積極的差別により逆に被害を被る生徒が出現する可能性。
[2]枠を設けることで本来合格するであろう能力を持った男子生徒が合格できなくなる可能性。
[3]実力の前では性差は関係ないのではないか。
[4]実力を伴わない女子生徒が入学した場合、入学以降ついていけなくなったり期待と評価に対し苦痛を感じる可能性。

②側の方が実際に討論を行う際にはやりやすそうな予感がします。アファーマティブ・アクションを採用して女子枠を設けたとしても、女子学生の卒業後の進路(研究員にしても就職にしても)まで担保されているわけではないので、間口のみを広げても女性の労働環境の改善には繋がらないのではないか、というのが個人的な感想です。賃金体系が変わらなければ、育休がとれなければ、教育に対する考え方が変わらなければ、専業主婦が当たり前あるいは望まれるべきという文化が変わらなければ、おそらく現状望まれているであろう女性の労働環境等の改善というのは達成し得ないように思われます。シングルイシューではなく、様々な問題点が複合的に大きな問題を作り上げているように思います。

2011年11月21日月曜日

無題のドキュメント

最近フラストレーションが溜まる機会が多いと言いましょうか、いや、既にフラストレーションが溜まっています。なぜフラストレーションがそこまで溜まったのか。ごちゃごちゃですが主に対人関係でしょうな。

今まであまり人に深く踏み込んで「あいつはこういうところが悪くてこういうところがいい」みたいなことをしてこなかったんだけど、そういう見方を急にしなきゃいけなくなって悪いところばかり目についてみんな嫌いって印象が強くなったのもありそうですね。あとは逆にすごいと思ってしまう人たちを見過ぎて無力感を突きつけられてしまったような感覚に苛まれたというのも大きいでしょう。

「今まであまり人に~」というところについて掘っていくと、その嫌いなところに対する考え方でしょうか。どう適当に接するかとか。目につき始めるとそういう部分はすごく気になるようになります。でも相手に拒絶の意思を以てそれを伝えるのもどうかと思うし、でもそれを良くしたほうがいいとか気を使って遠くからやんわりと気付かせるとかそんなややこしいことは出来そうにないうえ、大変な労力を必要とするでしょう。狭量だ、というところが大きく影響しているように思われます。

また、人と真剣に交わろうとしてこなかったという自覚があり、適度な力や手の抜き方の加減がわからないのです。距離を置いての付き合いがメインだったしそれでよかったはず、なのですがここ最近はそうもいかなくなってきたというのがフラストレーションにつながっているのでしょう。 自己主張が強いというかやたらべらべら喋る相手が嫌いですね。相槌を打つのが負担となります。おそらく過剰に丁寧に打っているのでしょう。だから印象はそんなに悪くないんだろうけど、大変な疲労を生み出しています。べらべら喋る相手というのは別に丁寧に相槌を打たなくても聞いているフリをしてるだけで勝手に満足するのではないか、という予感があります。故にペース配分の問題かも知れないと。ただ、ややこしいことに反応のひどく薄い人もあまり好きではないのです。無口なだけならともかく何か話しかけても何もない。実は喋る人に対して私が取ろうとしている方法の延長線上にある動き方という可能性もあるのですが。自分が話してばかりというのも疲れるものです。別に沈黙が嫌というわけではないし、むしろそれでもいいのですが話したほうがよい、あるいは話せる状況にあることに何かコストがかかっている場合にさえ何も話せないような人と対峙するというのは非常に苦しいものです。今こうして人付き合いというものについて考えてエネルギーを割いてるってことそのものもけっこうな不快感というか嫌悪感につながってはいます。

そこそこ孤独でいいから上辺だけの付き合いだけでやり過ごせる人生がよかった、というのが本音だったりはします。それでいいかどうかは別ですが。twitterくらいのライトな関係性というのは居心地のいい状態だったように思われます。浅い付き合いというのは嫌なところをあまり観なくてもいいし、嫌ならさっさと切れるというこのへんがすごく魅力的であります。逆に嫌なところまで把握して何か相手に信用をおくという段階に至らないので、仕事仲間とかそういうのを探せないのでしょうけれど。自分で何事においても自力で出来るというのであればそれも許される幅が広がるかもしれませんが、私にはそこまでは出来ないでしょう。故にやりたいように付き合うという欲望に対して素直に従い切れないのです。

問題は実際にどう接するか、なのですが敵を作らないようにしすぎて舐められてたり増長させちゃってる感がかなりあるので、もう気にせず普通に思ったことを言い放ってもいいのかもしれません。「嫌だし自分は今までのやり方で充足しているのに、それとは別のものをを強要される立場にある」というのがフラストレーションの要約としてはふさわしいかもしれません。主にある組織内の立場におけるものですが。

また、狭量であるにもかかわらず、狭量ではなくむしろひどく寛容であるかのように思われている、あるいはそのようにいることを期待されていると意識してしまい、感情をうまく表に出し切れていないというところもフラストレーションとなっているのではないかと考えます。

「深い付き合いは持ちたくないけど仕事仲間的なものが欲しい」というのであれば(私はあまり欲しませんが必ず必要な時というのがあると思いますので)、そういった感情あるいはエゴというのはここ最近の婚活に対する要求とその論破で散見される「年収ウン千万高身長高学歴あーだこーだ言いますけどそういうあなたは何があるんですか」的なのと同じ要領で論破されるのでしょうね。

いずれ社会に出る上でこういったことは考えるなりやらなきゃいけなくなっただろうから、それが先だろうが今だろうがあまり変わらない、と思い込んでなんとか進めてはいるけど義務的に乗り越えようと思えば思うほどフラストレーションが溜まっていきます。

はぁ…ひどく個人的な感情の暴露でした。

2011年11月12日土曜日

ジャッジって

 ディベートで久々に審判の立場に立ちました。その感想を書いていこうかと思います。

 ディベートの中で審判の判断材料とするには一字一句メモすることが求められるのでしょうけれど、実際にやってみるとそうではなく、自分がディベートのやりとりを聞いて思ったことや印象に残りやすかった主張がメモとして主に手元には残されていました。観衆側の解釈と要約によるメモでした。
メモなんてそういうものがほとんどなのかも知れませんが、実際にそれでジャッジとして進めていくと、思いの外説明を聞いた当時の感想やつながりをうまく説明できないもので、思わぬ不満を招いてしまったようです。ディベートが終わった直後の段階では論理として繋がっていて、説明可能な状態だったのにその後説明を求められるといまひとつ軸としてしっかり維持できていない状況というのがありました。とはいえ、最後まで判定に関しての物言いは受け付けませんでしたが。

自分としては真剣にあれこれメモを取っておいたつもりでしたがそうでもなかったということを知り、甘さを思い知りました。

メモの不足もあるのかもしれませんが、客観的なポジションを取ろうという姿勢が行き過ぎて裏目に出たというような印象も自分に対して感じました。ジャッジとして判断する際に客観的なポジションを目指すあまりに、データや資料そして出典に対して意見を求めるようになりすぎたフシがあってうまくその段階で判断しきれなかったという状態になりました。

ここ最近しばらくは主張する側、すなわちディベーターとしての参加が多かったゆえに客観的を意識しすぎた感は否めないです。

また、外側の立場に立って思ったのが、意外と人の意見や説明というのは当事者間では理解出来ていても観衆には伝わらないものだなぁ、と観衆側に立って思いました。というのも当事者間ではそれなりに理解が進んでいたものの、それについて観衆としてはあまり理解できていなかったというのがわかったからです。当事者間では意思疎通が進んでいて、その上で意見のぶつけ合いをおこうなっているわけですが、観衆が置いてけぼりになっていたとしたらあまり意味が無い。少なくともかなりの理解力を持った人々以外は全て置いていかれていく可能性があるということを忘れてはいけないのだと感じました。

ふと思ったのが中学でスポーツ系の部活をしていた頃に審判をしたことがあるのですが、その際に異議申立てに対して断固として最初の審判は覆してはいけないということを聞いていてよかったのかもしれないということです。というのも部活後の審判の判断の正当性を問う状況においてかなり揉めたからです。揉めた段階で覆すとそれは覆された側としては「こちらもゴネれば覆し返せるかもしれない」と思うわけで、それは進んでいくと第二の全面闘争です。それを避けるためには審判は最初のジャッジに自信を持ち、かつ覆してはいけない、という自分の軸的なものを再確認することが出来たのでよかったと考えても居ます。

今後しばらくは自分がディベーター側に回ることになると思うのですが、その上でいかに説明の言い回しや言葉の使い方、例の持ち出し方が勝敗に影響してくるかということの重大性を改めて認識した一日でした。例というのは諸刃の剣で、直感的な理解を促すと同時にミスリードの可能性を大きくします。以前読んだ小説でこういう一節がありました。簡潔に書くと「小説は例えで出来ていて、それゆえ小説家の言いたいことは読者に三割程度しか伝わらない」と。この話を真として考えると読みなおす機会が多く残されている小説でさえ三割理解されれば上等というのに、時間指定ありで口頭で一度しか話されないディベートにおいて真意を全て理解して貰う、というのは相当に難しいことのように思われます。今後はミスリードをなくすための策と理解をしてもらいやすいような話し方を目指していくことになると思います。