続き。第二外国語を廃止するべきではないという立場で提起と考えうる反論を挙げてみます。
①未知の国の文化に触れる機会が増える(文化の相対視)を起こせる。必修として強制される形だからこそ機会がありがたい。元々の興味のない人間が自発的にそういう機会は作らなかったり作れないことが多いと考えられる。
②英語のみが取り上げられるようになり、硬直化が進む。文化・言語の多様性の観点から大事である。
③多用な言語に触れることで言語への理解が深まる。
④文献が読めなくなる人が増える。
⑤友達を作れる機会として機能している。
①'あくまで相対視でしかないうえ、強制してまで大学側が学生に矯正して外国語を習わせる義理や必要性というのは何に基づくものであろうか。興味のない人間は強制されても最低限の範囲でしか調査や練習を積まないのではないだろうか。
②'実際には中国語が話者人口が多いように思われてはいるが、中国国内でも北京語や四川語といった分裂は有る上、公用語としての利用率は英語がダントツ高いという状況は返せない(データがどこかにあったはず)。故に英語が全てとは限らず、硬直化も同様に真ではない。
③'多様な言語に触れると言いつつも、入学前に語学クラスを指定しているせいで第二言語が精々、という人々をみてきた。また、その言語の縛りゆえに卒論や修士としての入学が困難になったケースも存在しては居る。
④'文献講読というった名目の講義もあるので、それに対応するようにカリキュラムを組むべきであって、生徒会長の一存のみによってキメられるものではないと考えられる。また、学部ごとに対象としている論文や会話のレベルが異なるので、必ずしも話が通じるとはにわかには考え難い。
⑤'座席指定制にすればよいのであって、全てが全て総合的学習の成果及び効果とは考え難い。試行錯誤を行う余地は未だにまだ少し残されているのではないだろうか。
微妙ですね。また書き加えるかも知れません。ノートをそのままPDFに出来ればまだよかったのかもしれませんが。
2011年12月21日水曜日
2011年12月14日水曜日
第二外国語廃止って
中国語の再履修を受けながらふと思ったのが、どうして第二外国語が必修なのだろうか、そしてなぜ入学前に特に詳しく実情を知る機会もなく選んだ言語を二年間も縛りを受けながら学習せねばならないのだろうかということです。変更可能にしてもいいのではないか、最終的に単位数あるいはひとつの言語を8単位分履修すればいいのではないか。私は大学に入ってから、自分のキャリアプランをいくつか考えた時、大学院に行く可能性も出てきました。社会学を進めていく上で強いのは英語以外で言えば独語・仏語です。必要性もかなり高いです。実際、院試の科目として設けているところもあります。そして、高校生が受験をしながらこういったキャリアプラン的なものについて考えたり調べたりするという余裕はあまりなかったように思います。そこで、第二外国語という括り、あるいは縛りというものを廃止してはどうか、という話について考えてみようと思います。
プランとしては「入学前に第二外国語を決定し、その選択に入学後二年間縛られなければならない」という現状を変えるために「第二外国語が必修であることをやめる」ということにします。
今回は「現行の第二外国語を廃止することに肯定」の立場についてメリットの提起と反論を考えていきたいと思います。ダッシュは反論。
①語学に取られる時間を減らし、学部特有の学問に触れる時間を増やせる。
②語学そのものの実用性が低く、論文を読むにも不足は否めない上、旅行に行っても通じるレベルまで到達する人は少ないであろう、という状況。
③形骸化していて、実用性を低めている。自発的に選択出来る状況にある方が有意義な語学学習に繋がる。
④二年間の縛りを与えることで逆に問題が生じうる。
⑤やりたくない。
⑥大学の人件費削減。
①学部レベルでは日本語と英語以外の論文を読む機会は非常に限られると考えられる。また翻訳前の書籍を自分で解読していくことで逆にミスリードが増えることが考えられる。
①' 翻訳書のみで進めるような学問は学問として不適切。読めるようにするべき。また、教養として語学は履修するべきである。
②各クラスの高得点者でも実際に外国へ行って使えるというレベルにある人は多いように思われない。またそのようなレベルであるゆえに論文など読めるはずがない。そもそも教科書自体が会話文メインであり、必ずしも論文を読ませることを意図していない。
②' 最低限の基礎を等しく学ばせる意図がある。土台である文法があれば、単語がわからなくても類推したり辞書を用いれば読めるはずである。また文献講読という科目も設置されており、自発的に語学能力を伸ばす機会は設けられている。
③単位を取らせるということで形骸化し、学生にとって消化試合として捉えられている傾向があるのではないか。簡単と言われる言語に任期が集中するのもその現れではないか。故に選択を自由とし、自発的な学習を促したほうが習得効果も期待出来るうえに、授業を妨害するような学生も減ると思われる。
③'
④入学前に決めた選択に大学生活の半分である二年間もの時間に制約を課されるのは不便である。入学してからわかることもあり、フレキシブルに選択できるようにするべきである。後で別の言語が必要となったときに、変更出来なければ例えば英語・中国語・ドイツ語などという履修計画を組まねばならなくなる。また、それにより1セメスターでの履修科目数が圧迫される。
④' 調べなかったのが悪い。⇛社会情勢の変化や目標、興味の変化は十分に起こりうる。
⑤需要の低下。やりたくないと感じている層が存在しているというのは時流の変化で、必ずしも学問をやりたくて大学に来ているわけではないという学生が増えている。こういった学生が講義の妨げとなる可能性は大きい。
⑤' 強制されてやったら実は面白かった、あるいは興味が広がったりということも考えられる。
⑥やりたい人のみが受けるということはクラス数も減らせるうえに、再履修の時間割を組んでクラス数を徒に増加させてしまうということを防止出来る。大学は法人化し、厳しい時代を迎えたので費用を削減したいのではないか。
⑥' 教育にはお金をかけるべきではないか。わずかな分野の縮小が全体の縮小を招く恐れもあるのではないか。
ざっとこんなところでしょうか。次回は否定の立場での提起と反論を考えてみたいと思います。
プランとしては「入学前に第二外国語を決定し、その選択に入学後二年間縛られなければならない」という現状を変えるために「第二外国語が必修であることをやめる」ということにします。
今回は「現行の第二外国語を廃止することに肯定」の立場についてメリットの提起と反論を考えていきたいと思います。ダッシュは反論。
①語学に取られる時間を減らし、学部特有の学問に触れる時間を増やせる。
②語学そのものの実用性が低く、論文を読むにも不足は否めない上、旅行に行っても通じるレベルまで到達する人は少ないであろう、という状況。
③形骸化していて、実用性を低めている。自発的に選択出来る状況にある方が有意義な語学学習に繋がる。
④二年間の縛りを与えることで逆に問題が生じうる。
⑤やりたくない。
⑥大学の人件費削減。
①学部レベルでは日本語と英語以外の論文を読む機会は非常に限られると考えられる。また翻訳前の書籍を自分で解読していくことで逆にミスリードが増えることが考えられる。
①' 翻訳書のみで進めるような学問は学問として不適切。読めるようにするべき。また、教養として語学は履修するべきである。
②各クラスの高得点者でも実際に外国へ行って使えるというレベルにある人は多いように思われない。またそのようなレベルであるゆえに論文など読めるはずがない。そもそも教科書自体が会話文メインであり、必ずしも論文を読ませることを意図していない。
②' 最低限の基礎を等しく学ばせる意図がある。土台である文法があれば、単語がわからなくても類推したり辞書を用いれば読めるはずである。また文献講読という科目も設置されており、自発的に語学能力を伸ばす機会は設けられている。
③単位を取らせるということで形骸化し、学生にとって消化試合として捉えられている傾向があるのではないか。簡単と言われる言語に任期が集中するのもその現れではないか。故に選択を自由とし、自発的な学習を促したほうが習得効果も期待出来るうえに、授業を妨害するような学生も減ると思われる。
③'
④入学前に決めた選択に大学生活の半分である二年間もの時間に制約を課されるのは不便である。入学してからわかることもあり、フレキシブルに選択できるようにするべきである。後で別の言語が必要となったときに、変更出来なければ例えば英語・中国語・ドイツ語などという履修計画を組まねばならなくなる。また、それにより1セメスターでの履修科目数が圧迫される。
④' 調べなかったのが悪い。⇛社会情勢の変化や目標、興味の変化は十分に起こりうる。
⑤需要の低下。やりたくないと感じている層が存在しているというのは時流の変化で、必ずしも学問をやりたくて大学に来ているわけではないという学生が増えている。こういった学生が講義の妨げとなる可能性は大きい。
⑤' 強制されてやったら実は面白かった、あるいは興味が広がったりということも考えられる。
⑥やりたい人のみが受けるということはクラス数も減らせるうえに、再履修の時間割を組んでクラス数を徒に増加させてしまうということを防止出来る。大学は法人化し、厳しい時代を迎えたので費用を削減したいのではないか。
⑥' 教育にはお金をかけるべきではないか。わずかな分野の縮小が全体の縮小を招く恐れもあるのではないか。
ざっとこんなところでしょうか。次回は否定の立場での提起と反論を考えてみたいと思います。
2011年12月13日火曜日
「今年の漢字」って
いろんなルートでtwitterを眺めていましたが、どうやら「今年の漢字」というものが決まり、それに対して様々な意見が飛び交っていたようで。個人的にはアレについては触れたら負け、いわゆるマスメディアのショーとあまり変わらないのではないか、等と思っていました。しかし、あまりにも影響力といいましょうか、存在感を放っていたようなので、少し考えてみましょうか。
そもそも「今年の漢字」は漢検協会が主催しているもののようで。それを公募によって決め、清水寺にて発表と揮毫を行うという形式のようです。文化的な組織というイメージがあまりない(一時期の不祥事のせいかもしれませんが)漢検協会が主催であることと、漢字そのものが公募であること、酵母の選考基準が云々、等と微妙に気にかかるところはありますが、もう少し根本的な部分としてなぜこのイベントが今回そこまでtwitter層にまで影響を及ぼした(言及する人がそれなりに見られたという意味で)のかという点については微々たる違和感を感じざるを得ません。
当然ネット利用層の変遷などもあるのでしょうが、個人的に古参であったように思われる人や普段マスメディア的言説に対して微妙に距離を開けていた人や毛嫌いしている人までもが、このイベントに対して言及しているように感じられました。ネット層の変遷についてはもと詳しい人が居るでしょうし、徐々にいわゆる一般層的な人々にまで浸透してきているようなのでそのあたりは特に触れようと思いません。気になったのはそれ以降の後者で、国や国の機関主催でもない一イベントにウォッチャー的な人々まで幅広く言及していたというのが意外に感じられました(当然、私の観測範囲やウォッチャーの定義が広いというのもあるでしょうけれども)。
特に斜に構えている人々というのはネットに多いように思います(これも偏見)。しかしその層でさえも「今年の漢字」というイベントそのものについての懐疑はなく、漢字の是非に多くの関心を奪われていたように思います。斜に構えているが故、なのかもしれませんが。しかし斜に構えているからこそ、二者択一のクローズドエンド型クエスチョンに囚われてはいかがなものかと思わないこともないのです。まんまとはめられているような。
話をやや戻すと「今年の漢字」の成立について調べてみるとか、不服ならば次から利用しないなど、方策はいくつか残っている。身を大幅に削るなどというのはそこにはロマンが無くなってしまうのではないだろうか。
催眠なり怪しげな宗教にかかった子ほど独特の人間を含む傾向があるので気を付けたほうがようような気はする。敵対的状況(かどうかは知りませんが、対極にあるとされる)人々に対して何が出来るのか。
お酒飲み過ぎましたね。もしかしたら後で手直しするかも。
そもそも「今年の漢字」は漢検協会が主催しているもののようで。それを公募によって決め、清水寺にて発表と揮毫を行うという形式のようです。文化的な組織というイメージがあまりない(一時期の不祥事のせいかもしれませんが)漢検協会が主催であることと、漢字そのものが公募であること、酵母の選考基準が云々、等と微妙に気にかかるところはありますが、もう少し根本的な部分としてなぜこのイベントが今回そこまでtwitter層にまで影響を及ぼした(言及する人がそれなりに見られたという意味で)のかという点については微々たる違和感を感じざるを得ません。
当然ネット利用層の変遷などもあるのでしょうが、個人的に古参であったように思われる人や普段マスメディア的言説に対して微妙に距離を開けていた人や毛嫌いしている人までもが、このイベントに対して言及しているように感じられました。ネット層の変遷についてはもと詳しい人が居るでしょうし、徐々にいわゆる一般層的な人々にまで浸透してきているようなのでそのあたりは特に触れようと思いません。気になったのはそれ以降の後者で、国や国の機関主催でもない一イベントにウォッチャー的な人々まで幅広く言及していたというのが意外に感じられました(当然、私の観測範囲やウォッチャーの定義が広いというのもあるでしょうけれども)。
特に斜に構えている人々というのはネットに多いように思います(これも偏見)。しかしその層でさえも「今年の漢字」というイベントそのものについての懐疑はなく、漢字の是非に多くの関心を奪われていたように思います。斜に構えているが故、なのかもしれませんが。しかし斜に構えているからこそ、二者択一のクローズドエンド型クエスチョンに囚われてはいかがなものかと思わないこともないのです。まんまとはめられているような。
話をやや戻すと「今年の漢字」の成立について調べてみるとか、不服ならば次から利用しないなど、方策はいくつか残っている。身を大幅に削るなどというのはそこにはロマンが無くなってしまうのではないだろうか。
催眠なり怪しげな宗教にかかった子ほど独特の人間を含む傾向があるので気を付けたほうがようような気はする。敵対的状況(かどうかは知りませんが、対極にあるとされる)人々に対して何が出来るのか。
お酒飲み過ぎましたね。もしかしたら後で手直しするかも。
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