2011年12月21日水曜日

第二外国語廃止ってⅡ

続き。第二外国語を廃止するべきではないという立場で提起と考えうる反論を挙げてみます。

①未知の国の文化に触れる機会が増える(文化の相対視)を起こせる。必修として強制される形だからこそ機会がありがたい。元々の興味のない人間が自発的にそういう機会は作らなかったり作れないことが多いと考えられる。

②英語のみが取り上げられるようになり、硬直化が進む。文化・言語の多様性の観点から大事である。
③多用な言語に触れることで言語への理解が深まる。
④文献が読めなくなる人が増える。
⑤友達を作れる機会として機能している。

①'あくまで相対視でしかないうえ、強制してまで大学側が学生に矯正して外国語を習わせる義理や必要性というのは何に基づくものであろうか。興味のない人間は強制されても最低限の範囲でしか調査や練習を積まないのではないだろうか。

②'実際には中国語が話者人口が多いように思われてはいるが、中国国内でも北京語や四川語といった分裂は有る上、公用語としての利用率は英語がダントツ高いという状況は返せない(データがどこかにあったはず)。故に英語が全てとは限らず、硬直化も同様に真ではない。

③'多様な言語に触れると言いつつも、入学前に語学クラスを指定しているせいで第二言語が精々、という人々をみてきた。また、その言語の縛りゆえに卒論や修士としての入学が困難になったケースも存在しては居る。

④'文献講読というった名目の講義もあるので、それに対応するようにカリキュラムを組むべきであって、生徒会長の一存のみによってキメられるものではないと考えられる。また、学部ごとに対象としている論文や会話のレベルが異なるので、必ずしも話が通じるとはにわかには考え難い。

⑤'座席指定制にすればよいのであって、全てが全て総合的学習の成果及び効果とは考え難い。試行錯誤を行う余地は未だにまだ少し残されているのではないだろうか。

微妙ですね。また書き加えるかも知れません。ノートをそのままPDFに出来ればまだよかったのかもしれませんが。

2011年12月14日水曜日

第二外国語廃止って

 中国語の再履修を受けながらふと思ったのが、どうして第二外国語が必修なのだろうか、そしてなぜ入学前に特に詳しく実情を知る機会もなく選んだ言語を二年間も縛りを受けながら学習せねばならないのだろうかということです。変更可能にしてもいいのではないか、最終的に単位数あるいはひとつの言語を8単位分履修すればいいのではないか。私は大学に入ってから、自分のキャリアプランをいくつか考えた時、大学院に行く可能性も出てきました。社会学を進めていく上で強いのは英語以外で言えば独語・仏語です。必要性もかなり高いです。実際、院試の科目として設けているところもあります。そして、高校生が受験をしながらこういったキャリアプラン的なものについて考えたり調べたりするという余裕はあまりなかったように思います。そこで、第二外国語という括り、あるいは縛りというものを廃止してはどうか、という話について考えてみようと思います。

プランとしては「入学前に第二外国語を決定し、その選択に入学後二年間縛られなければならない」という現状を変えるために「第二外国語が必修であることをやめる」ということにします。

 今回は「現行の第二外国語を廃止することに肯定」の立場についてメリットの提起と反論を考えていきたいと思います。ダッシュは反論。

①語学に取られる時間を減らし、学部特有の学問に触れる時間を増やせる。
②語学そのものの実用性が低く、論文を読むにも不足は否めない上、旅行に行っても通じるレベルまで到達する人は少ないであろう、という状況。
③形骸化していて、実用性を低めている。自発的に選択出来る状況にある方が有意義な語学学習に繋がる。
④二年間の縛りを与えることで逆に問題が生じうる。
⑤やりたくない。
⑥大学の人件費削減。

①学部レベルでは日本語と英語以外の論文を読む機会は非常に限られると考えられる。また翻訳前の書籍を自分で解読していくことで逆にミスリードが増えることが考えられる。
①' 翻訳書のみで進めるような学問は学問として不適切。読めるようにするべき。また、教養として語学は履修するべきである。

②各クラスの高得点者でも実際に外国へ行って使えるというレベルにある人は多いように思われない。またそのようなレベルであるゆえに論文など読めるはずがない。そもそも教科書自体が会話文メインであり、必ずしも論文を読ませることを意図していない。
②' 最低限の基礎を等しく学ばせる意図がある。土台である文法があれば、単語がわからなくても類推したり辞書を用いれば読めるはずである。また文献講読という科目も設置されており、自発的に語学能力を伸ばす機会は設けられている。

③単位を取らせるということで形骸化し、学生にとって消化試合として捉えられている傾向があるのではないか。簡単と言われる言語に任期が集中するのもその現れではないか。故に選択を自由とし、自発的な学習を促したほうが習得効果も期待出来るうえに、授業を妨害するような学生も減ると思われる。
③'

④入学前に決めた選択に大学生活の半分である二年間もの時間に制約を課されるのは不便である。入学してからわかることもあり、フレキシブルに選択できるようにするべきである。後で別の言語が必要となったときに、変更出来なければ例えば英語・中国語・ドイツ語などという履修計画を組まねばならなくなる。また、それにより1セメスターでの履修科目数が圧迫される。
④' 調べなかったのが悪い。⇛社会情勢の変化や目標、興味の変化は十分に起こりうる。

⑤需要の低下。やりたくないと感じている層が存在しているというのは時流の変化で、必ずしも学問をやりたくて大学に来ているわけではないという学生が増えている。こういった学生が講義の妨げとなる可能性は大きい。
⑤' 強制されてやったら実は面白かった、あるいは興味が広がったりということも考えられる。

⑥やりたい人のみが受けるということはクラス数も減らせるうえに、再履修の時間割を組んでクラス数を徒に増加させてしまうということを防止出来る。大学は法人化し、厳しい時代を迎えたので費用を削減したいのではないか。
⑥' 教育にはお金をかけるべきではないか。わずかな分野の縮小が全体の縮小を招く恐れもあるのではないか。

ざっとこんなところでしょうか。次回は否定の立場での提起と反論を考えてみたいと思います。

2011年12月13日火曜日

「今年の漢字」って

いろんなルートでtwitterを眺めていましたが、どうやら「今年の漢字」というものが決まり、それに対して様々な意見が飛び交っていたようで。個人的にはアレについては触れたら負け、いわゆるマスメディアのショーとあまり変わらないのではないか、等と思っていました。しかし、あまりにも影響力といいましょうか、存在感を放っていたようなので、少し考えてみましょうか。

そもそも「今年の漢字」は漢検協会が主催しているもののようで。それを公募によって決め、清水寺にて発表と揮毫を行うという形式のようです。文化的な組織というイメージがあまりない(一時期の不祥事のせいかもしれませんが)漢検協会が主催であることと、漢字そのものが公募であること、酵母の選考基準が云々、等と微妙に気にかかるところはありますが、もう少し根本的な部分としてなぜこのイベントが今回そこまでtwitter層にまで影響を及ぼした(言及する人がそれなりに見られたという意味で)のかという点については微々たる違和感を感じざるを得ません。

当然ネット利用層の変遷などもあるのでしょうが、個人的に古参であったように思われる人や普段マスメディア的言説に対して微妙に距離を開けていた人や毛嫌いしている人までもが、このイベントに対して言及しているように感じられました。ネット層の変遷についてはもと詳しい人が居るでしょうし、徐々にいわゆる一般層的な人々にまで浸透してきているようなのでそのあたりは特に触れようと思いません。気になったのはそれ以降の後者で、国や国の機関主催でもない一イベントにウォッチャー的な人々まで幅広く言及していたというのが意外に感じられました(当然、私の観測範囲やウォッチャーの定義が広いというのもあるでしょうけれども)。

特に斜に構えている人々というのはネットに多いように思います(これも偏見)。しかしその層でさえも「今年の漢字」というイベントそのものについての懐疑はなく、漢字の是非に多くの関心を奪われていたように思います。斜に構えているが故、なのかもしれませんが。しかし斜に構えているからこそ、二者択一のクローズドエンド型クエスチョンに囚われてはいかがなものかと思わないこともないのです。まんまとはめられているような。

話をやや戻すと「今年の漢字」の成立について調べてみるとか、不服ならば次から利用しないなど、方策はいくつか残っている。身を大幅に削るなどというのはそこにはロマンが無くなってしまうのではないだろうか。

催眠なり怪しげな宗教にかかった子ほど独特の人間を含む傾向があるので気を付けたほうがようような気はする。敵対的状況(かどうかは知りませんが、対極にあるとされる)人々に対して何が出来るのか。

お酒飲み過ぎましたね。もしかしたら後で手直しするかも。

2011年11月29日火曜日

アファーマティブ・アクションって

 何をプレゼンに取り上げようか迷った結果、アファーマティブ・アクションについて取り上げてみることにしました。アファーマティブ・アクションというのは日本では「女性の機械不均等に対して積極的に是正のための介入をしていくこと」というように理解していいようでした。いくつか辞書なりWikipediaなりを読んだ結果。
なぜこれを選んだかというと、たまたまこの単語について知る機会があって、少し調べてみると実はけっこうあちこちで行われているようで興味を持ったということ、そして九州大学の理系学部が後期入試に女子枠を設ける計画を出してそれについて批判が集まったという記事を見かけたことが大きな要因です。


まず当該大学の理系学部の場合について二方向から考えてみます。
①女子枠を設けたのは正しい判断であるという立場で考える場合
  [1]そもそも理系には女子学生も女性教員も少なく、女性教員を増やすためにはまず学生を増やす必要性がある。それは即ち女性の社会進出に繋がることである。
[2]名のある国立大学が先立って女性の労働環境の改善に対してアクションを取ることは有益である。
[3]公務員における女性の労働環境は民間よりも現状優れている。国立の大学法人もそれに習うべきである。
[4]性別によって優れた女性研究者が世の中で活躍できないで埋もれている可能性。
[5]学歴社会的傾向のある現代において女性が学歴を取得することは労働環境改善や社会進出において有益なことである。
今のところ思いつくのはこのくらいでしょうか。


②女子枠を設けるのは正しい判断ではないという立場で考える場合
[1]男子受験生に対する差別である。積極的差別により逆に被害を被る生徒が出現する可能性。
[2]枠を設けることで本来合格するであろう能力を持った男子生徒が合格できなくなる可能性。
[3]実力の前では性差は関係ないのではないか。
[4]実力を伴わない女子生徒が入学した場合、入学以降ついていけなくなったり期待と評価に対し苦痛を感じる可能性。

②側の方が実際に討論を行う際にはやりやすそうな予感がします。アファーマティブ・アクションを採用して女子枠を設けたとしても、女子学生の卒業後の進路(研究員にしても就職にしても)まで担保されているわけではないので、間口のみを広げても女性の労働環境の改善には繋がらないのではないか、というのが個人的な感想です。賃金体系が変わらなければ、育休がとれなければ、教育に対する考え方が変わらなければ、専業主婦が当たり前あるいは望まれるべきという文化が変わらなければ、おそらく現状望まれているであろう女性の労働環境等の改善というのは達成し得ないように思われます。シングルイシューではなく、様々な問題点が複合的に大きな問題を作り上げているように思います。

2011年11月21日月曜日

無題のドキュメント

最近フラストレーションが溜まる機会が多いと言いましょうか、いや、既にフラストレーションが溜まっています。なぜフラストレーションがそこまで溜まったのか。ごちゃごちゃですが主に対人関係でしょうな。

今まであまり人に深く踏み込んで「あいつはこういうところが悪くてこういうところがいい」みたいなことをしてこなかったんだけど、そういう見方を急にしなきゃいけなくなって悪いところばかり目についてみんな嫌いって印象が強くなったのもありそうですね。あとは逆にすごいと思ってしまう人たちを見過ぎて無力感を突きつけられてしまったような感覚に苛まれたというのも大きいでしょう。

「今まであまり人に~」というところについて掘っていくと、その嫌いなところに対する考え方でしょうか。どう適当に接するかとか。目につき始めるとそういう部分はすごく気になるようになります。でも相手に拒絶の意思を以てそれを伝えるのもどうかと思うし、でもそれを良くしたほうがいいとか気を使って遠くからやんわりと気付かせるとかそんなややこしいことは出来そうにないうえ、大変な労力を必要とするでしょう。狭量だ、というところが大きく影響しているように思われます。

また、人と真剣に交わろうとしてこなかったという自覚があり、適度な力や手の抜き方の加減がわからないのです。距離を置いての付き合いがメインだったしそれでよかったはず、なのですがここ最近はそうもいかなくなってきたというのがフラストレーションにつながっているのでしょう。 自己主張が強いというかやたらべらべら喋る相手が嫌いですね。相槌を打つのが負担となります。おそらく過剰に丁寧に打っているのでしょう。だから印象はそんなに悪くないんだろうけど、大変な疲労を生み出しています。べらべら喋る相手というのは別に丁寧に相槌を打たなくても聞いているフリをしてるだけで勝手に満足するのではないか、という予感があります。故にペース配分の問題かも知れないと。ただ、ややこしいことに反応のひどく薄い人もあまり好きではないのです。無口なだけならともかく何か話しかけても何もない。実は喋る人に対して私が取ろうとしている方法の延長線上にある動き方という可能性もあるのですが。自分が話してばかりというのも疲れるものです。別に沈黙が嫌というわけではないし、むしろそれでもいいのですが話したほうがよい、あるいは話せる状況にあることに何かコストがかかっている場合にさえ何も話せないような人と対峙するというのは非常に苦しいものです。今こうして人付き合いというものについて考えてエネルギーを割いてるってことそのものもけっこうな不快感というか嫌悪感につながってはいます。

そこそこ孤独でいいから上辺だけの付き合いだけでやり過ごせる人生がよかった、というのが本音だったりはします。それでいいかどうかは別ですが。twitterくらいのライトな関係性というのは居心地のいい状態だったように思われます。浅い付き合いというのは嫌なところをあまり観なくてもいいし、嫌ならさっさと切れるというこのへんがすごく魅力的であります。逆に嫌なところまで把握して何か相手に信用をおくという段階に至らないので、仕事仲間とかそういうのを探せないのでしょうけれど。自分で何事においても自力で出来るというのであればそれも許される幅が広がるかもしれませんが、私にはそこまでは出来ないでしょう。故にやりたいように付き合うという欲望に対して素直に従い切れないのです。

問題は実際にどう接するか、なのですが敵を作らないようにしすぎて舐められてたり増長させちゃってる感がかなりあるので、もう気にせず普通に思ったことを言い放ってもいいのかもしれません。「嫌だし自分は今までのやり方で充足しているのに、それとは別のものをを強要される立場にある」というのがフラストレーションの要約としてはふさわしいかもしれません。主にある組織内の立場におけるものですが。

また、狭量であるにもかかわらず、狭量ではなくむしろひどく寛容であるかのように思われている、あるいはそのようにいることを期待されていると意識してしまい、感情をうまく表に出し切れていないというところもフラストレーションとなっているのではないかと考えます。

「深い付き合いは持ちたくないけど仕事仲間的なものが欲しい」というのであれば(私はあまり欲しませんが必ず必要な時というのがあると思いますので)、そういった感情あるいはエゴというのはここ最近の婚活に対する要求とその論破で散見される「年収ウン千万高身長高学歴あーだこーだ言いますけどそういうあなたは何があるんですか」的なのと同じ要領で論破されるのでしょうね。

いずれ社会に出る上でこういったことは考えるなりやらなきゃいけなくなっただろうから、それが先だろうが今だろうがあまり変わらない、と思い込んでなんとか進めてはいるけど義務的に乗り越えようと思えば思うほどフラストレーションが溜まっていきます。

はぁ…ひどく個人的な感情の暴露でした。

2011年11月12日土曜日

ジャッジって

 ディベートで久々に審判の立場に立ちました。その感想を書いていこうかと思います。

 ディベートの中で審判の判断材料とするには一字一句メモすることが求められるのでしょうけれど、実際にやってみるとそうではなく、自分がディベートのやりとりを聞いて思ったことや印象に残りやすかった主張がメモとして主に手元には残されていました。観衆側の解釈と要約によるメモでした。
メモなんてそういうものがほとんどなのかも知れませんが、実際にそれでジャッジとして進めていくと、思いの外説明を聞いた当時の感想やつながりをうまく説明できないもので、思わぬ不満を招いてしまったようです。ディベートが終わった直後の段階では論理として繋がっていて、説明可能な状態だったのにその後説明を求められるといまひとつ軸としてしっかり維持できていない状況というのがありました。とはいえ、最後まで判定に関しての物言いは受け付けませんでしたが。

自分としては真剣にあれこれメモを取っておいたつもりでしたがそうでもなかったということを知り、甘さを思い知りました。

メモの不足もあるのかもしれませんが、客観的なポジションを取ろうという姿勢が行き過ぎて裏目に出たというような印象も自分に対して感じました。ジャッジとして判断する際に客観的なポジションを目指すあまりに、データや資料そして出典に対して意見を求めるようになりすぎたフシがあってうまくその段階で判断しきれなかったという状態になりました。

ここ最近しばらくは主張する側、すなわちディベーターとしての参加が多かったゆえに客観的を意識しすぎた感は否めないです。

また、外側の立場に立って思ったのが、意外と人の意見や説明というのは当事者間では理解出来ていても観衆には伝わらないものだなぁ、と観衆側に立って思いました。というのも当事者間ではそれなりに理解が進んでいたものの、それについて観衆としてはあまり理解できていなかったというのがわかったからです。当事者間では意思疎通が進んでいて、その上で意見のぶつけ合いをおこうなっているわけですが、観衆が置いてけぼりになっていたとしたらあまり意味が無い。少なくともかなりの理解力を持った人々以外は全て置いていかれていく可能性があるということを忘れてはいけないのだと感じました。

ふと思ったのが中学でスポーツ系の部活をしていた頃に審判をしたことがあるのですが、その際に異議申立てに対して断固として最初の審判は覆してはいけないということを聞いていてよかったのかもしれないということです。というのも部活後の審判の判断の正当性を問う状況においてかなり揉めたからです。揉めた段階で覆すとそれは覆された側としては「こちらもゴネれば覆し返せるかもしれない」と思うわけで、それは進んでいくと第二の全面闘争です。それを避けるためには審判は最初のジャッジに自信を持ち、かつ覆してはいけない、という自分の軸的なものを再確認することが出来たのでよかったと考えても居ます。

今後しばらくは自分がディベーター側に回ることになると思うのですが、その上でいかに説明の言い回しや言葉の使い方、例の持ち出し方が勝敗に影響してくるかということの重大性を改めて認識した一日でした。例というのは諸刃の剣で、直感的な理解を促すと同時にミスリードの可能性を大きくします。以前読んだ小説でこういう一節がありました。簡潔に書くと「小説は例えで出来ていて、それゆえ小説家の言いたいことは読者に三割程度しか伝わらない」と。この話を真として考えると読みなおす機会が多く残されている小説でさえ三割理解されれば上等というのに、時間指定ありで口頭で一度しか話されないディベートにおいて真意を全て理解して貰う、というのは相当に難しいことのように思われます。今後はミスリードをなくすための策と理解をしてもらいやすいような話し方を目指していくことになると思います。

2011年10月31日月曜日

TPPって

 TPPというものについて調べる機会があったのでいろいろ調べてきました。環太平洋戦略的経済連携協定ですね。今話題(?)のアレです。

調べていくと…肯定する理由がほとんど思いつかない。今のところは憶測で様々な条項が挙げられていますが、どれひとつとっても日本にとって利益のありそうな項目がない。
誤解を招きそうな言い方ですがざっくり言うと「関税も自由化してさらにそれに関するシステムも国際的な基準(日本にとってはあまり都合のいいものではない)を作って合わせようぜ!」というもののようです。

そうです。自由化です。農業製品、工業製品、さらには労働力から通信電気サービス製薬金融全てです。さらには政府調達やら公共事業やら保険制度まで~という可能性も含んでいるようです。
おそらく農業は相当な苦境に立たされるし、工業製品にしても円高な上に既に工場の海外移転が進んでいるので関税がなくなっても輸出がそんなに増えるのかはちょっと疑問です。

調べるにあたってはかなり中野剛志氏の意見が多く出回っていたのでだいぶ焼き増しになってしまっているかもしれませんが、自分で参加を肯定する理屈を考えてみてもあまり思いつかないし探してもなかなか見つからないのでTPPに対しては否定的です。

関税をフリーにするという点以外で気になったのがISD条項というものについてです。
これはTPPやFTAと抱き合わせの条約らしいのですが、ざっくり言うと「国外に投資してその国の施策によって利益が回収できなくなった場合に裁判をふっかけてお金をふんだくれる」ようなものだ、という説が多く出ていました。これは世界銀行傘下の国際投資紛争解決センター(ICSID)という機関に持っていかれて、そこで裁判らしきものを行って国家に賠償をさせるものらしいです。しかしこの機関、米国に有利なのではないかなどと言われていたりどのような基準で判決を下しているのかわかりにくいなどという話がありました。実際に調べてもあまりわからないですし、過去の判決の件数や結果を見ても公平かどうかは微妙な感じがしました。
ISD条項に批准するとその裁判にかけられてしまうようになるそうです。逆に言えばこちらからもかけられるのかもしれませんが、勝ち目が薄かったり批准段階で何かと仕組まれてしまいそうな気もしますね。

ちょっとどうなのかなぁ…。

同時に反対意見が圧倒的多数を占めているというのも逆に若干不気味ではありますが。

あまりまとまりのない文章になりましたが、あとで気が向いたらまとめて書き足します。

2011年10月26日水曜日

平等って

 最近、読む本や触れる話題に社会階層などが多いのでそういうことを考える時が以前より増えてきたように感じます。当たり前のように、今まで様々な学者が平等を理論で追いかけてそれが未だに達成されていないので私がなんやかんや考えた所で達成への道を思いつくわけがないのはわかっているので真剣に思い悩むなどということはないです。が、現在の不平等の形態や類型化、これまでの格差や社会的地位の再生産というもののメカニズムを知っていくというのはなかなか興味深いと思います。

 基本的に平等というのは「同じ階層が再生産されず流動的になる」というのが階層論の上では大事なようです。高所得階層の家から高所得階層の子が再生産されるあるいは低所得階層からは低所得階層が再生産され続ける、というのは均等ではないということです。つまり「出身階層による制約から逃れて本人のみによる階層の生産」というのが基本的なテーゼとして提起されます。

 どういった尺度でモデルを作れば均等が実現されるのか。例えばマイケル・ヤングの『メリトクラシー』で知能テストによるハイスコアラーのみが社会の特権を握ることが出来るというようなストーリーがあるが、結局一度高い階層になった人間は子孫に自分と同じメソッドを教え込んだり諸特権(財力なり知力なり)を用いて高階層の人間を再生産していくことになります。現代でも東大生のウン割が高所得階層だというデータは度々新聞などで見かけられます。予備校に行かせるお金がある、あるいは勉強に集中させる環境や教えが多いというのもまた再生産のツールです。そうなると「学歴のみによる均等」から「学歴を媒体とした出身階層による再生産」というモデルにいつの間にか変質していきます。また、テストの形式にもよりますが、必ずしも知能が高い人間が優れた統治者になれるわけではありません。学歴あるいは知能のみによる人間の選抜はそれほど平等とは言えません。

 あるいは体力による選抜だとしても女性であったり子どもというのはやはり生物的にどうしようもない壁が存在してしまいます。どういった能力によって選抜したとしても、均等というのは非常に難しいと思われます。ではひとつの能力ではない部分で評価すればいいのか?たしかに絶対的な基準を設けたほうがわかりやすいもののジェネラリスト的な指標にしたほうが均等ではあるかもしれないですね。しかし基準を作る段階で揉めそうです。メリトクラシー等の話はこれとは逆にひとつの価値観に特化して鍛えられたスペシャリストを選抜する方法ということでしたが、これもまた先ほどのような理由などから今のところ均等を目指せる指標は見つかっていません。

 などといったことを聴いたり読んだりしてどういうものが均等の達成に向かうことが出来るか、と考えて見ることが増えたということでした。

久々の更新終わり。また続けていきたいなぁ。

2011年10月12日水曜日

twitterって

ここ最近はやや忙しくその疲労感とネタ切れも相まってしばらくサボっちゃった。そろそろ慣れてきた感じもするのでぼちぼちペースを戻して行きましょうかね。夏休みの間が異常に時間を持て余していた気もしますけどね。

最近twitterでいわゆる著名人の方々の自著宣伝が妙にうざったく感じていたのですが、少し冷静に考えてみると自著を宣伝するのは当たり前と言ってもいいのではないでしょうか。私が考え方を変えたというのもあるかもしれませんし、著名人とされる方々の使い方も変わってきたのだと思います。まずは「どう変わってきたのか」から考えてみます。今まで(個人的な尺度ですが、私がtwitterを使い始めた頃をとりあえず起点にします)は著名人の方々は各自の得意な分野(学者であれば専門領域であるとか)についてpostしていくことが多かったように思います。しかし時を経ていくにつれて同業の方々とのコミュニケーションや先述の自著宣伝にシフトしていきました。「twitterは議論に向かない」「コミュニケーションツールである」そういった意見や認識が浸透していったことも一因であると思うし、そもそも無料で全て公開している場所で専門知識というリソースをバラまいていくというのはあまり実りのあるものでもありません。書籍にして出版すればそこそこのお金になるような内容の話をSNSで消費してしまっては後でネタに困ることもあるのではないでしょうか。手品師はタネをばらまかない。そういう部分が意識されてきた結果なんじゃないかと思います。私が始めた頃はもう少しあちこちで議論らしきものはありました。最近、一時的に地震及び原子力・放射線について様々な憶測が飛び交った際に再び活発にはなっていましたが、今ではむしろ書籍を出すほどの確たるバックがない、あるいはトンデモとされている少数派の方々の意見が飛び交っている事のほうが多いように思われます。

「あの頃はよかった」というほどではないのですが、今となっては「情報収集」であるとか「健全な議論を」という目的意識でSNSに接していくというのは失望を味わうだけなのではないかと思うようになってきたのです。もちろん、今まで知らなかった主張を持った人の書籍を知る機会に会う可能性や人におすすめの書籍等を聞くといったことも可能であるので、情報収集という側面が皆無だとは思いません。ただしそれもあくまで副次的なものだという印象が強いです。議論をするにしても140文字という制限では全て伝えきる事ができない場合もあるし、それで一部だけを取り上げて反論してくる人も増えていたように思いましたし。

あんまりまとまらなかった、というかまとめる気もそんなになかったんだけど、とりあえずこんな感じで私のtwitterへの接し方や印象というのは変わってきたなぁと思った次第です。本当に周りも変わったかどうかはよくわかりません(笑)。

2011年10月7日金曜日

村下孝蔵って

 だいぶ前からよく聴いてるんだけど、やっぱりいいな。表現が綺麗に思える。風景が色彩だったり情景なんかと絡められて頭の中にふわっと浮かんでくる。世代的な差があったりしていまひとつ普通ならわかりにくそうなことなんかもあるんだけど、それでも目を閉じると浮かんでくる風景がある。

まあ私がごちゃごちゃ言うよりかはレンタルCDとかけっこう出てるから借りてきて聞いてみて欲しいなぁ。うん。

2011年10月6日木曜日

官僚制って

他の講義がその時の自分にとってあまりに興味が持てなかったので政治社会学という講義に履修を振り替えた。最初はこれもそんなに面白いものなのだろうか、という気持ちはあったんだ。まあ前に面白く無いと思った講義よりは良かったから取ったんだけど。でも途中からだんだん面白くなってきた。どんな内容かというと今回は官僚制が主なキーワードで、途中から統治システムの話になった。

官僚制っていうのは大規模組織制であって実は民間でもほぼ同じシステムが採用されているところが多いという。まずピラミッド型にヒエラルキーがあって事務次官や官房とやらが上部にあるらしい。官房は文書・人事・予算について発言権がある。民間で言うところの総務というものとほぼ同じらしい。その下に局というものがくっついていて、そこから課や係へと分業的にラインが伸びている。上部はその分業されたものを統合する場所であるという。ラインに沿って専門的に分業された業務内容が上部に伝達されていく過程で文書というものが作られる。この文書というものは自分の仕事の責任を明確にするもので、逆に言えばこれがあれば自分の仕事の範囲外の責任を負わされにくくなるというものである。たぶん報告書とか就業日記とかそういうものも文書なのかな。これを管理するのがさっき言った文書課的なところらしい。ここにはわりと世の中に出回っちゃうとマズいものとかもあるそうで、上のポストとして文書課があるのも納得できる(そういうものがあることがいいか悪いかは別として)。

官僚的システムの机の配置は本来パーテーションごとに区切ってあるらしく、他人の業務内容はあまりわからない。欧米なんかでもやってるらしいが、日本でよくあるシステムとは違って代理を立てたりすることもないので「休む!」という時は相手もその人に関わる仕事が出来なかったりすることがわりとざらにあるそうだ。しかし一方、日本のシステムというのは官僚制的であるにも関わらず若干変則的で、小中学校の給食時間のような大部屋的スタイルであるそうだ。メリットとしては他人の勤務状況や仕事の内容がわかることで代理も立てやすく、きめ細やかなサービスを提供できること。デメリットとしては相互の監視が働いて思い切った判断もしにくく、チームとして認識されているがゆえ責任の所在があいまいでチーム全体の責任として見られることも多いらしい。

大部屋的なスタイルでどんな人間が求められるかというと、プロフェッショナルではなくジェネラリストであるという。業務を分担する可能性があることから、ある程度幅広く扱える人間でありかつそれらを確認できるようなコミュニケーションの出来る人間である。さらにこのコミュニケーションという部分に関しては、チームとして進めていく以上個々の問題点や考え方を把握したりする必要性もある。昨今の「コミュニケーションの必要性が云々」というのもここまで言われると納得できるものはある。

業務スタイルとしてこの大部屋的なシステムは研修をする際、“On the job training”つまり仕事を実際にやってみてその中で指導していく、というスタイルであるという。これはパーテーションごとに区切られた職場ではできない。またこのようにして仕事を進めていく上に長期にわたって仕事をするからこそ付き合いや熱心な指導も進めていくわけだが、そうなると派遣労働者というシステムとの相性は悪い。よくて数年で切るのであれば、正社員と同じように教育するコスト(時間や熱意)はあまり有意義ではない。単純労働的な部分などではあまり問題無いとしても積極的に用いていくには動機としてあまり強いものはないのではないか。また“On the job training”でスキルは身に付けていくわけでTOEICやらTOEFLも「あればいい」程度でむしろコミュニケーションや飲み込みの速さが求められるような気がしてならない。もちろんここまでの話は「理想的な官僚制を用いているかつ教育する余裕がある会社」であることが前提なのは言うまでもない。

こういったシステム的な話を含めてやれコミュ力だの飲みュニケーションだのと言われていたのだ、と思えば違和感もそこまで感じなくなってくる。こういう構造を説明せずはやし立てられるとう新勧しか生まれない。もし、煽っている本人達がこういったシステムについて無知なまま「なんとなく」で煽っているのならいい気分はしないよね。

なんていうことを講義受けながら考えていたわけですが。その先生はご自身の務める大学で公務員試験支援的なポジションも兼ねているらしく、公務員試験などの現状についても語っておられたのですが長くなってきたからそろそろ寝よう。

2011年10月5日水曜日

大学って

 だいぶ前の話ですが、とある私立大学のCMで「ここならきっと目標が見つかる!」とか「やりたいことをみつけよう!」って謳っている大学がありました。しかし本来目標またはやりたいことがあって大学ってのは行くもんじゃないのかしら、などと思ったわけです。しかし、かくいう私もそこまで確固たる目的があったかと言われるとそこまで強固だったかはわからないと思い始めた。学歴を得る(もしくは大卒資格を得る)ということが目的として見られる傾向が強い印象があるので、もしかしてあまり何をする学部なのか、とか調べていなかったりする人もけっこういるんじゃないかと思うこともある。例えば社会学部に入って「心理学とかあるんだってー!」って言ってた人や文学部で高校倫理というか現代社会レベルの思想の名前を知らないとかそういったことは思っていたよりも多い。あくまで私の通う大学の話だけど。名もない私立というほどでもなかったのでちょっと驚き。
 社会や価値観はもちろん変わるものなので今の御時世「大学は学問をするところだ!」と声高に叫んだ所で今の価値観とは合致しないのかもしれない。大卒っていうのは一種の社会に出るための資格になってきてるんじゃないかという話はあちこちでなされてる気がする。公務員試験の変更なんかもだいぶ大卒が前提にされているような。大学そのものも世の中の評価基準が就職者数になってきていて、就職予備校化してきてるなんて言説も多々あるわけで。社会の変化だけじゃなくて大学だったり人だったりといろんな変化が組み合わさってさらに大きく変化していくんですね。
 自分が何を欲して、何のために、どう、何をしていくか。だいたいはおそらく就職に繋がる、というかそういう思考になるような環境に囲まれている。だから他の選択みたいなものは見えにくい。でも例えば教授になるだとか本出すだとかの裏に、こういう知識を広めたい!とかこの発見を紹介したい!とかそういう「働く・稼ぐ」だけじゃない目的がある人は憧れる。そういったものを見つける場所としての大学でもあるというのならそれはそれでいいんじゃないかと思ってる。皆が皆見つかるわけではないと思うけどね。
 最近私自身少し別な進路の可能性を考えているのだけれど、それも含めてちょっと考えてみた。

2011年10月4日火曜日

命の価値って

『電車に轢かれて学長死亡』一時期妙に取り上げられていたニュースだけど、「学長」ってところを強調しすぎだと感じていたあの頃。たしか飛び込み自殺だったと思う。もちろん人が亡くなったのは悲しいこと。でもそれが例えば社会的に評価される地位ではない人だった場合はここまで取り上げられないで、都会のよくある事故の一つで終わるよねきっと。都会の電車に乗っていて「人身事故により云々」というのはよくあると聞くし。ひとりが飛び込んでニュースになると、そこを飛び込み自殺のスポット的に解釈する人が現れて連続で事故が起きる(つまり飛び込みをする人が増える)と聞いたことがある。それで取り上げられ始めて「実は最初に死んだのは~」ということもあったように覚えている。

似たような話で昔見たのが交通事故で3名死亡。一人は地方国立大学の学生、一人はサラリーマン、一人は東大生。メディアに取り上げられるのは東大生の死の話ばかり。「惜しい人物を亡くした」「有望な子だった」etc... といった風。命に価値の差はあるんですかね。

命の価値という話であれば、うろ覚えだけれどマイケル・サンデル先生が『これからの正義について~』で書かれていたような。徴兵制の話なんだけど、本来徴兵ということは誰もが徴兵されうるわけですが、「徴兵に行きたくない人(例えば大企業の社長さん等)は指定の金額を払えば徴兵を免れる事ができる」ということがあったそうだ。そこで「ではその指定された金額で徴兵を本来受けた人の代わりに戦場へ行くということはその金額こそある種の命の金額とも言えるのではないか」ということをおっしゃっていた。徴兵だけではなく、志願兵制度にしても兵士に支払われるお金は「命の金額」ということになるだろう、と。もう少し身近な例だと過失致死とかそういったもので人を死なせてしまった時に支払うよう命じられる慰謝料(法律関係に詳しくないのでミスがあったらごめんなさい)についても同様ではないかと思う。福島の保障とかもだろうし。

命の価値って数字で表せないもののような気がしているので「あなた(もしくはあなたの親しい関係の人の)命の価値ですよー」って言われてポンっとお金を渡されても納得できないですけどね。ただこの社会で表すには現状ではお金が一番わかり易いんだし、しょうがないことなんだと思うよ。社会通念として了解されてるというか誰もが分かる基準ってことになってるし。




あ、ちなみに電車に飛び込みをして自殺をなさると電車が遅れたりなんなりで相当な金額の賠償が親御サンもしくは親戚の方々に行くらしいので人に迷惑をかけない自殺ではないものですし、片付ける方もホント気分が悪いらしいのでやめたほうがいいと思いますよ。電車に乗ってる人からしても気分のいいものではありませんしね。

2011年10月3日月曜日

ペース配分

根性論や精神論、全力でやればなんとなかるんだからやれ、という言説はよく見かける。実際に努力量で挽回できることもある。でも、必ずしもそれには同意できない。具体性に著しく欠けている場合が多くて、それは適切なアドバイスとは思えなくて。そもそもこの手のものをアドバイスとして受け取ることが間違っているのであって、これは自分に対して発破をかける、もしくはプレッシャーを与えているって場合が多いんじゃないかと思うんですね。

テニスなんかでも、逆転の厳しい1ゲームは捨てて次のゲームのために体力温存を図ることも多い。そういうやり方もあっていいと思う。常に全力っていうのは一種いいことだし,理想かもしれないけれども,怪我のリスクもあるでしょうし、本来の目的が勝負に勝つことなら、本気を出し続けペース配分に失敗して敗北というのが一番目的達成からかけ離れている。全力にしてもメリハリがあってもいいと思う。むしろあった方がいいと思ってる。


テニスを例にとったけど、他のスポーツでも言えるかもしれない。ペース配分が必要な種目は多いし、一瞬へ集中力のピークを持っていくのもある種のペース配分だと思うし。ただし、これは現状ある手札でどう戦うかという話であって、いつまでも手札を増やしたり強化しないままで戦っていても進化はないですね。手札を増やし、補強することありきの戦略なんだってことは忘れちゃいけないと思う。

2011年10月1日土曜日

出来ることから

 ひとまず始めてみることに。毎日書けそうな話ってたぶん講義なのかな。なんであれ最低でも週3くらいで続けていけたら、と思う。