TPPというものについて調べる機会があったのでいろいろ調べてきました。環太平洋戦略的経済連携協定ですね。今話題(?)のアレです。
調べていくと…肯定する理由がほとんど思いつかない。今のところは憶測で様々な条項が挙げられていますが、どれひとつとっても日本にとって利益のありそうな項目がない。
誤解を招きそうな言い方ですがざっくり言うと「関税も自由化してさらにそれに関するシステムも国際的な基準(日本にとってはあまり都合のいいものではない)を作って合わせようぜ!」というもののようです。
そうです。自由化です。農業製品、工業製品、さらには労働力から通信電気サービス製薬金融全てです。さらには政府調達やら公共事業やら保険制度まで~という可能性も含んでいるようです。
おそらく農業は相当な苦境に立たされるし、工業製品にしても円高な上に既に工場の海外移転が進んでいるので関税がなくなっても輸出がそんなに増えるのかはちょっと疑問です。
調べるにあたってはかなり中野剛志氏の意見が多く出回っていたのでだいぶ焼き増しになってしまっているかもしれませんが、自分で参加を肯定する理屈を考えてみてもあまり思いつかないし探してもなかなか見つからないのでTPPに対しては否定的です。
関税をフリーにするという点以外で気になったのがISD条項というものについてです。
これはTPPやFTAと抱き合わせの条約らしいのですが、ざっくり言うと「国外に投資してその国の施策によって利益が回収できなくなった場合に裁判をふっかけてお金をふんだくれる」ようなものだ、という説が多く出ていました。これは世界銀行傘下の国際投資紛争解決センター(ICSID)という機関に持っていかれて、そこで裁判らしきものを行って国家に賠償をさせるものらしいです。しかしこの機関、米国に有利なのではないかなどと言われていたりどのような基準で判決を下しているのかわかりにくいなどという話がありました。実際に調べてもあまりわからないですし、過去の判決の件数や結果を見ても公平かどうかは微妙な感じがしました。
ISD条項に批准するとその裁判にかけられてしまうようになるそうです。逆に言えばこちらからもかけられるのかもしれませんが、勝ち目が薄かったり批准段階で何かと仕組まれてしまいそうな気もしますね。
ちょっとどうなのかなぁ…。
同時に反対意見が圧倒的多数を占めているというのも逆に若干不気味ではありますが。
あまりまとまりのない文章になりましたが、あとで気が向いたらまとめて書き足します。
2011年10月31日月曜日
2011年10月26日水曜日
平等って
最近、読む本や触れる話題に社会階層などが多いのでそういうことを考える時が以前より増えてきたように感じます。当たり前のように、今まで様々な学者が平等を理論で追いかけてそれが未だに達成されていないので私がなんやかんや考えた所で達成への道を思いつくわけがないのはわかっているので真剣に思い悩むなどということはないです。が、現在の不平等の形態や類型化、これまでの格差や社会的地位の再生産というもののメカニズムを知っていくというのはなかなか興味深いと思います。
基本的に平等というのは「同じ階層が再生産されず流動的になる」というのが階層論の上では大事なようです。高所得階層の家から高所得階層の子が再生産されるあるいは低所得階層からは低所得階層が再生産され続ける、というのは均等ではないということです。つまり「出身階層による制約から逃れて本人のみによる階層の生産」というのが基本的なテーゼとして提起されます。
どういった尺度でモデルを作れば均等が実現されるのか。例えばマイケル・ヤングの『メリトクラシー』で知能テストによるハイスコアラーのみが社会の特権を握ることが出来るというようなストーリーがあるが、結局一度高い階層になった人間は子孫に自分と同じメソッドを教え込んだり諸特権(財力なり知力なり)を用いて高階層の人間を再生産していくことになります。現代でも東大生のウン割が高所得階層だというデータは度々新聞などで見かけられます。予備校に行かせるお金がある、あるいは勉強に集中させる環境や教えが多いというのもまた再生産のツールです。そうなると「学歴のみによる均等」から「学歴を媒体とした出身階層による再生産」というモデルにいつの間にか変質していきます。また、テストの形式にもよりますが、必ずしも知能が高い人間が優れた統治者になれるわけではありません。学歴あるいは知能のみによる人間の選抜はそれほど平等とは言えません。
あるいは体力による選抜だとしても女性であったり子どもというのはやはり生物的にどうしようもない壁が存在してしまいます。どういった能力によって選抜したとしても、均等というのは非常に難しいと思われます。ではひとつの能力ではない部分で評価すればいいのか?たしかに絶対的な基準を設けたほうがわかりやすいもののジェネラリスト的な指標にしたほうが均等ではあるかもしれないですね。しかし基準を作る段階で揉めそうです。メリトクラシー等の話はこれとは逆にひとつの価値観に特化して鍛えられたスペシャリストを選抜する方法ということでしたが、これもまた先ほどのような理由などから今のところ均等を目指せる指標は見つかっていません。
などといったことを聴いたり読んだりしてどういうものが均等の達成に向かうことが出来るか、と考えて見ることが増えたということでした。
久々の更新終わり。また続けていきたいなぁ。
基本的に平等というのは「同じ階層が再生産されず流動的になる」というのが階層論の上では大事なようです。高所得階層の家から高所得階層の子が再生産されるあるいは低所得階層からは低所得階層が再生産され続ける、というのは均等ではないということです。つまり「出身階層による制約から逃れて本人のみによる階層の生産」というのが基本的なテーゼとして提起されます。
どういった尺度でモデルを作れば均等が実現されるのか。例えばマイケル・ヤングの『メリトクラシー』で知能テストによるハイスコアラーのみが社会の特権を握ることが出来るというようなストーリーがあるが、結局一度高い階層になった人間は子孫に自分と同じメソッドを教え込んだり諸特権(財力なり知力なり)を用いて高階層の人間を再生産していくことになります。現代でも東大生のウン割が高所得階層だというデータは度々新聞などで見かけられます。予備校に行かせるお金がある、あるいは勉強に集中させる環境や教えが多いというのもまた再生産のツールです。そうなると「学歴のみによる均等」から「学歴を媒体とした出身階層による再生産」というモデルにいつの間にか変質していきます。また、テストの形式にもよりますが、必ずしも知能が高い人間が優れた統治者になれるわけではありません。学歴あるいは知能のみによる人間の選抜はそれほど平等とは言えません。
あるいは体力による選抜だとしても女性であったり子どもというのはやはり生物的にどうしようもない壁が存在してしまいます。どういった能力によって選抜したとしても、均等というのは非常に難しいと思われます。ではひとつの能力ではない部分で評価すればいいのか?たしかに絶対的な基準を設けたほうがわかりやすいもののジェネラリスト的な指標にしたほうが均等ではあるかもしれないですね。しかし基準を作る段階で揉めそうです。メリトクラシー等の話はこれとは逆にひとつの価値観に特化して鍛えられたスペシャリストを選抜する方法ということでしたが、これもまた先ほどのような理由などから今のところ均等を目指せる指標は見つかっていません。
などといったことを聴いたり読んだりしてどういうものが均等の達成に向かうことが出来るか、と考えて見ることが増えたということでした。
久々の更新終わり。また続けていきたいなぁ。
2011年10月12日水曜日
twitterって
ここ最近はやや忙しくその疲労感とネタ切れも相まってしばらくサボっちゃった。そろそろ慣れてきた感じもするのでぼちぼちペースを戻して行きましょうかね。夏休みの間が異常に時間を持て余していた気もしますけどね。
最近twitterでいわゆる著名人の方々の自著宣伝が妙にうざったく感じていたのですが、少し冷静に考えてみると自著を宣伝するのは当たり前と言ってもいいのではないでしょうか。私が考え方を変えたというのもあるかもしれませんし、著名人とされる方々の使い方も変わってきたのだと思います。まずは「どう変わってきたのか」から考えてみます。今まで(個人的な尺度ですが、私がtwitterを使い始めた頃をとりあえず起点にします)は著名人の方々は各自の得意な分野(学者であれば専門領域であるとか)についてpostしていくことが多かったように思います。しかし時を経ていくにつれて同業の方々とのコミュニケーションや先述の自著宣伝にシフトしていきました。「twitterは議論に向かない」「コミュニケーションツールである」そういった意見や認識が浸透していったことも一因であると思うし、そもそも無料で全て公開している場所で専門知識というリソースをバラまいていくというのはあまり実りのあるものでもありません。書籍にして出版すればそこそこのお金になるような内容の話をSNSで消費してしまっては後でネタに困ることもあるのではないでしょうか。手品師はタネをばらまかない。そういう部分が意識されてきた結果なんじゃないかと思います。私が始めた頃はもう少しあちこちで議論らしきものはありました。最近、一時的に地震及び原子力・放射線について様々な憶測が飛び交った際に再び活発にはなっていましたが、今ではむしろ書籍を出すほどの確たるバックがない、あるいはトンデモとされている少数派の方々の意見が飛び交っている事のほうが多いように思われます。
「あの頃はよかった」というほどではないのですが、今となっては「情報収集」であるとか「健全な議論を」という目的意識でSNSに接していくというのは失望を味わうだけなのではないかと思うようになってきたのです。もちろん、今まで知らなかった主張を持った人の書籍を知る機会に会う可能性や人におすすめの書籍等を聞くといったことも可能であるので、情報収集という側面が皆無だとは思いません。ただしそれもあくまで副次的なものだという印象が強いです。議論をするにしても140文字という制限では全て伝えきる事ができない場合もあるし、それで一部だけを取り上げて反論してくる人も増えていたように思いましたし。
あんまりまとまらなかった、というかまとめる気もそんなになかったんだけど、とりあえずこんな感じで私のtwitterへの接し方や印象というのは変わってきたなぁと思った次第です。本当に周りも変わったかどうかはよくわかりません(笑)。
最近twitterでいわゆる著名人の方々の自著宣伝が妙にうざったく感じていたのですが、少し冷静に考えてみると自著を宣伝するのは当たり前と言ってもいいのではないでしょうか。私が考え方を変えたというのもあるかもしれませんし、著名人とされる方々の使い方も変わってきたのだと思います。まずは「どう変わってきたのか」から考えてみます。今まで(個人的な尺度ですが、私がtwitterを使い始めた頃をとりあえず起点にします)は著名人の方々は各自の得意な分野(学者であれば専門領域であるとか)についてpostしていくことが多かったように思います。しかし時を経ていくにつれて同業の方々とのコミュニケーションや先述の自著宣伝にシフトしていきました。「twitterは議論に向かない」「コミュニケーションツールである」そういった意見や認識が浸透していったことも一因であると思うし、そもそも無料で全て公開している場所で専門知識というリソースをバラまいていくというのはあまり実りのあるものでもありません。書籍にして出版すればそこそこのお金になるような内容の話をSNSで消費してしまっては後でネタに困ることもあるのではないでしょうか。手品師はタネをばらまかない。そういう部分が意識されてきた結果なんじゃないかと思います。私が始めた頃はもう少しあちこちで議論らしきものはありました。最近、一時的に地震及び原子力・放射線について様々な憶測が飛び交った際に再び活発にはなっていましたが、今ではむしろ書籍を出すほどの確たるバックがない、あるいはトンデモとされている少数派の方々の意見が飛び交っている事のほうが多いように思われます。
「あの頃はよかった」というほどではないのですが、今となっては「情報収集」であるとか「健全な議論を」という目的意識でSNSに接していくというのは失望を味わうだけなのではないかと思うようになってきたのです。もちろん、今まで知らなかった主張を持った人の書籍を知る機会に会う可能性や人におすすめの書籍等を聞くといったことも可能であるので、情報収集という側面が皆無だとは思いません。ただしそれもあくまで副次的なものだという印象が強いです。議論をするにしても140文字という制限では全て伝えきる事ができない場合もあるし、それで一部だけを取り上げて反論してくる人も増えていたように思いましたし。
あんまりまとまらなかった、というかまとめる気もそんなになかったんだけど、とりあえずこんな感じで私のtwitterへの接し方や印象というのは変わってきたなぁと思った次第です。本当に周りも変わったかどうかはよくわかりません(笑)。
2011年10月7日金曜日
村下孝蔵って
だいぶ前からよく聴いてるんだけど、やっぱりいいな。表現が綺麗に思える。風景が色彩だったり情景なんかと絡められて頭の中にふわっと浮かんでくる。世代的な差があったりしていまひとつ普通ならわかりにくそうなことなんかもあるんだけど、それでも目を閉じると浮かんでくる風景がある。
まあ私がごちゃごちゃ言うよりかはレンタルCDとかけっこう出てるから借りてきて聞いてみて欲しいなぁ。うん。
まあ私がごちゃごちゃ言うよりかはレンタルCDとかけっこう出てるから借りてきて聞いてみて欲しいなぁ。うん。
2011年10月6日木曜日
官僚制って
他の講義がその時の自分にとってあまりに興味が持てなかったので政治社会学という講義に履修を振り替えた。最初はこれもそんなに面白いものなのだろうか、という気持ちはあったんだ。まあ前に面白く無いと思った講義よりは良かったから取ったんだけど。でも途中からだんだん面白くなってきた。どんな内容かというと今回は官僚制が主なキーワードで、途中から統治システムの話になった。
官僚制っていうのは大規模組織制であって実は民間でもほぼ同じシステムが採用されているところが多いという。まずピラミッド型にヒエラルキーがあって事務次官や官房とやらが上部にあるらしい。官房は文書・人事・予算について発言権がある。民間で言うところの総務というものとほぼ同じらしい。その下に局というものがくっついていて、そこから課や係へと分業的にラインが伸びている。上部はその分業されたものを統合する場所であるという。ラインに沿って専門的に分業された業務内容が上部に伝達されていく過程で文書というものが作られる。この文書というものは自分の仕事の責任を明確にするもので、逆に言えばこれがあれば自分の仕事の範囲外の責任を負わされにくくなるというものである。たぶん報告書とか就業日記とかそういうものも文書なのかな。これを管理するのがさっき言った文書課的なところらしい。ここにはわりと世の中に出回っちゃうとマズいものとかもあるそうで、上のポストとして文書課があるのも納得できる(そういうものがあることがいいか悪いかは別として)。
官僚的システムの机の配置は本来パーテーションごとに区切ってあるらしく、他人の業務内容はあまりわからない。欧米なんかでもやってるらしいが、日本でよくあるシステムとは違って代理を立てたりすることもないので「休む!」という時は相手もその人に関わる仕事が出来なかったりすることがわりとざらにあるそうだ。しかし一方、日本のシステムというのは官僚制的であるにも関わらず若干変則的で、小中学校の給食時間のような大部屋的スタイルであるそうだ。メリットとしては他人の勤務状況や仕事の内容がわかることで代理も立てやすく、きめ細やかなサービスを提供できること。デメリットとしては相互の監視が働いて思い切った判断もしにくく、チームとして認識されているがゆえ責任の所在があいまいでチーム全体の責任として見られることも多いらしい。
大部屋的なスタイルでどんな人間が求められるかというと、プロフェッショナルではなくジェネラリストであるという。業務を分担する可能性があることから、ある程度幅広く扱える人間でありかつそれらを確認できるようなコミュニケーションの出来る人間である。さらにこのコミュニケーションという部分に関しては、チームとして進めていく以上個々の問題点や考え方を把握したりする必要性もある。昨今の「コミュニケーションの必要性が云々」というのもここまで言われると納得できるものはある。
業務スタイルとしてこの大部屋的なシステムは研修をする際、“On the job training”つまり仕事を実際にやってみてその中で指導していく、というスタイルであるという。これはパーテーションごとに区切られた職場ではできない。またこのようにして仕事を進めていく上に長期にわたって仕事をするからこそ付き合いや熱心な指導も進めていくわけだが、そうなると派遣労働者というシステムとの相性は悪い。よくて数年で切るのであれば、正社員と同じように教育するコスト(時間や熱意)はあまり有意義ではない。単純労働的な部分などではあまり問題無いとしても積極的に用いていくには動機としてあまり強いものはないのではないか。また“On the job training”でスキルは身に付けていくわけでTOEICやらTOEFLも「あればいい」程度でむしろコミュニケーションや飲み込みの速さが求められるような気がしてならない。もちろんここまでの話は「理想的な官僚制を用いているかつ教育する余裕がある会社」であることが前提なのは言うまでもない。
こういったシステム的な話を含めてやれコミュ力だの飲みュニケーションだのと言われていたのだ、と思えば違和感もそこまで感じなくなってくる。こういう構造を説明せずはやし立てられるとう新勧しか生まれない。もし、煽っている本人達がこういったシステムについて無知なまま「なんとなく」で煽っているのならいい気分はしないよね。
なんていうことを講義受けながら考えていたわけですが。その先生はご自身の務める大学で公務員試験支援的なポジションも兼ねているらしく、公務員試験などの現状についても語っておられたのですが長くなってきたからそろそろ寝よう。
官僚制っていうのは大規模組織制であって実は民間でもほぼ同じシステムが採用されているところが多いという。まずピラミッド型にヒエラルキーがあって事務次官や官房とやらが上部にあるらしい。官房は文書・人事・予算について発言権がある。民間で言うところの総務というものとほぼ同じらしい。その下に局というものがくっついていて、そこから課や係へと分業的にラインが伸びている。上部はその分業されたものを統合する場所であるという。ラインに沿って専門的に分業された業務内容が上部に伝達されていく過程で文書というものが作られる。この文書というものは自分の仕事の責任を明確にするもので、逆に言えばこれがあれば自分の仕事の範囲外の責任を負わされにくくなるというものである。たぶん報告書とか就業日記とかそういうものも文書なのかな。これを管理するのがさっき言った文書課的なところらしい。ここにはわりと世の中に出回っちゃうとマズいものとかもあるそうで、上のポストとして文書課があるのも納得できる(そういうものがあることがいいか悪いかは別として)。
官僚的システムの机の配置は本来パーテーションごとに区切ってあるらしく、他人の業務内容はあまりわからない。欧米なんかでもやってるらしいが、日本でよくあるシステムとは違って代理を立てたりすることもないので「休む!」という時は相手もその人に関わる仕事が出来なかったりすることがわりとざらにあるそうだ。しかし一方、日本のシステムというのは官僚制的であるにも関わらず若干変則的で、小中学校の給食時間のような大部屋的スタイルであるそうだ。メリットとしては他人の勤務状況や仕事の内容がわかることで代理も立てやすく、きめ細やかなサービスを提供できること。デメリットとしては相互の監視が働いて思い切った判断もしにくく、チームとして認識されているがゆえ責任の所在があいまいでチーム全体の責任として見られることも多いらしい。
大部屋的なスタイルでどんな人間が求められるかというと、プロフェッショナルではなくジェネラリストであるという。業務を分担する可能性があることから、ある程度幅広く扱える人間でありかつそれらを確認できるようなコミュニケーションの出来る人間である。さらにこのコミュニケーションという部分に関しては、チームとして進めていく以上個々の問題点や考え方を把握したりする必要性もある。昨今の「コミュニケーションの必要性が云々」というのもここまで言われると納得できるものはある。
業務スタイルとしてこの大部屋的なシステムは研修をする際、“On the job training”つまり仕事を実際にやってみてその中で指導していく、というスタイルであるという。これはパーテーションごとに区切られた職場ではできない。またこのようにして仕事を進めていく上に長期にわたって仕事をするからこそ付き合いや熱心な指導も進めていくわけだが、そうなると派遣労働者というシステムとの相性は悪い。よくて数年で切るのであれば、正社員と同じように教育するコスト(時間や熱意)はあまり有意義ではない。単純労働的な部分などではあまり問題無いとしても積極的に用いていくには動機としてあまり強いものはないのではないか。また“On the job training”でスキルは身に付けていくわけでTOEICやらTOEFLも「あればいい」程度でむしろコミュニケーションや飲み込みの速さが求められるような気がしてならない。もちろんここまでの話は「理想的な官僚制を用いているかつ教育する余裕がある会社」であることが前提なのは言うまでもない。
こういったシステム的な話を含めてやれコミュ力だの飲みュニケーションだのと言われていたのだ、と思えば違和感もそこまで感じなくなってくる。こういう構造を説明せずはやし立てられるとう新勧しか生まれない。もし、煽っている本人達がこういったシステムについて無知なまま「なんとなく」で煽っているのならいい気分はしないよね。
なんていうことを講義受けながら考えていたわけですが。その先生はご自身の務める大学で公務員試験支援的なポジションも兼ねているらしく、公務員試験などの現状についても語っておられたのですが長くなってきたからそろそろ寝よう。
2011年10月5日水曜日
大学って
だいぶ前の話ですが、とある私立大学のCMで「ここならきっと目標が見つかる!」とか「やりたいことをみつけよう!」って謳っている大学がありました。しかし本来目標またはやりたいことがあって大学ってのは行くもんじゃないのかしら、などと思ったわけです。しかし、かくいう私もそこまで確固たる目的があったかと言われるとそこまで強固だったかはわからないと思い始めた。学歴を得る(もしくは大卒資格を得る)ということが目的として見られる傾向が強い印象があるので、もしかしてあまり何をする学部なのか、とか調べていなかったりする人もけっこういるんじゃないかと思うこともある。例えば社会学部に入って「心理学とかあるんだってー!」って言ってた人や文学部で高校倫理というか現代社会レベルの思想の名前を知らないとかそういったことは思っていたよりも多い。あくまで私の通う大学の話だけど。名もない私立というほどでもなかったのでちょっと驚き。
社会や価値観はもちろん変わるものなので今の御時世「大学は学問をするところだ!」と声高に叫んだ所で今の価値観とは合致しないのかもしれない。大卒っていうのは一種の社会に出るための資格になってきてるんじゃないかという話はあちこちでなされてる気がする。公務員試験の変更なんかもだいぶ大卒が前提にされているような。大学そのものも世の中の評価基準が就職者数になってきていて、就職予備校化してきてるなんて言説も多々あるわけで。社会の変化だけじゃなくて大学だったり人だったりといろんな変化が組み合わさってさらに大きく変化していくんですね。
自分が何を欲して、何のために、どう、何をしていくか。だいたいはおそらく就職に繋がる、というかそういう思考になるような環境に囲まれている。だから他の選択みたいなものは見えにくい。でも例えば教授になるだとか本出すだとかの裏に、こういう知識を広めたい!とかこの発見を紹介したい!とかそういう「働く・稼ぐ」だけじゃない目的がある人は憧れる。そういったものを見つける場所としての大学でもあるというのならそれはそれでいいんじゃないかと思ってる。皆が皆見つかるわけではないと思うけどね。
最近私自身少し別な進路の可能性を考えているのだけれど、それも含めてちょっと考えてみた。
2011年10月4日火曜日
命の価値って
『電車に轢かれて学長死亡』一時期妙に取り上げられていたニュースだけど、「学長」ってところを強調しすぎだと感じていたあの頃。たしか飛び込み自殺だったと思う。もちろん人が亡くなったのは悲しいこと。でもそれが例えば社会的に評価される地位ではない人だった場合はここまで取り上げられないで、都会のよくある事故の一つで終わるよねきっと。都会の電車に乗っていて「人身事故により云々」というのはよくあると聞くし。ひとりが飛び込んでニュースになると、そこを飛び込み自殺のスポット的に解釈する人が現れて連続で事故が起きる(つまり飛び込みをする人が増える)と聞いたことがある。それで取り上げられ始めて「実は最初に死んだのは~」ということもあったように覚えている。
似たような話で昔見たのが交通事故で3名死亡。一人は地方国立大学の学生、一人はサラリーマン、一人は東大生。メディアに取り上げられるのは東大生の死の話ばかり。「惜しい人物を亡くした」「有望な子だった」etc... といった風。命に価値の差はあるんですかね。
命の価値という話であれば、うろ覚えだけれどマイケル・サンデル先生が『これからの正義について~』で書かれていたような。徴兵制の話なんだけど、本来徴兵ということは誰もが徴兵されうるわけですが、「徴兵に行きたくない人(例えば大企業の社長さん等)は指定の金額を払えば徴兵を免れる事ができる」ということがあったそうだ。そこで「ではその指定された金額で徴兵を本来受けた人の代わりに戦場へ行くということはその金額こそある種の命の金額とも言えるのではないか」ということをおっしゃっていた。徴兵だけではなく、志願兵制度にしても兵士に支払われるお金は「命の金額」ということになるだろう、と。もう少し身近な例だと過失致死とかそういったもので人を死なせてしまった時に支払うよう命じられる慰謝料(法律関係に詳しくないのでミスがあったらごめんなさい)についても同様ではないかと思う。福島の保障とかもだろうし。
命の価値って数字で表せないもののような気がしているので「あなた(もしくはあなたの親しい関係の人の)命の価値ですよー」って言われてポンっとお金を渡されても納得できないですけどね。ただこの社会で表すには現状ではお金が一番わかり易いんだし、しょうがないことなんだと思うよ。社会通念として了解されてるというか誰もが分かる基準ってことになってるし。
あ、ちなみに電車に飛び込みをして自殺をなさると電車が遅れたりなんなりで相当な金額の賠償が親御サンもしくは親戚の方々に行くらしいので人に迷惑をかけない自殺ではないものですし、片付ける方もホント気分が悪いらしいのでやめたほうがいいと思いますよ。電車に乗ってる人からしても気分のいいものではありませんしね。
似たような話で昔見たのが交通事故で3名死亡。一人は地方国立大学の学生、一人はサラリーマン、一人は東大生。メディアに取り上げられるのは東大生の死の話ばかり。「惜しい人物を亡くした」「有望な子だった」etc... といった風。命に価値の差はあるんですかね。
命の価値という話であれば、うろ覚えだけれどマイケル・サンデル先生が『これからの正義について~』で書かれていたような。徴兵制の話なんだけど、本来徴兵ということは誰もが徴兵されうるわけですが、「徴兵に行きたくない人(例えば大企業の社長さん等)は指定の金額を払えば徴兵を免れる事ができる」ということがあったそうだ。そこで「ではその指定された金額で徴兵を本来受けた人の代わりに戦場へ行くということはその金額こそある種の命の金額とも言えるのではないか」ということをおっしゃっていた。徴兵だけではなく、志願兵制度にしても兵士に支払われるお金は「命の金額」ということになるだろう、と。もう少し身近な例だと過失致死とかそういったもので人を死なせてしまった時に支払うよう命じられる慰謝料(法律関係に詳しくないのでミスがあったらごめんなさい)についても同様ではないかと思う。福島の保障とかもだろうし。
命の価値って数字で表せないもののような気がしているので「あなた(もしくはあなたの親しい関係の人の)命の価値ですよー」って言われてポンっとお金を渡されても納得できないですけどね。ただこの社会で表すには現状ではお金が一番わかり易いんだし、しょうがないことなんだと思うよ。社会通念として了解されてるというか誰もが分かる基準ってことになってるし。
あ、ちなみに電車に飛び込みをして自殺をなさると電車が遅れたりなんなりで相当な金額の賠償が親御サンもしくは親戚の方々に行くらしいので人に迷惑をかけない自殺ではないものですし、片付ける方もホント気分が悪いらしいのでやめたほうがいいと思いますよ。電車に乗ってる人からしても気分のいいものではありませんしね。
2011年10月3日月曜日
ペース配分
根性論や精神論、全力でやればなんとなかるんだからやれ、という言説はよく見かける。実際に努力量で挽回できることもある。でも、必ずしもそれには同意できない。具体性に著しく欠けている場合が多くて、それは適切なアドバイスとは思えなくて。そもそもこの手のものをアドバイスとして受け取ることが間違っているのであって、これは自分に対して発破をかける、もしくはプレッシャーを与えているって場合が多いんじゃないかと思うんですね。
テニスなんかでも、逆転の厳しい1ゲームは捨てて次のゲームのために体力温存を図ることも多い。そういうやり方もあっていいと思う。常に全力っていうのは一種いいことだし,理想かもしれないけれども,怪我のリスクもあるでしょうし、本来の目的が勝負に勝つことなら、本気を出し続けペース配分に失敗して敗北というのが一番目的達成からかけ離れている。全力にしてもメリハリがあってもいいと思う。むしろあった方がいいと思ってる。
テニスを例にとったけど、他のスポーツでも言えるかもしれない。ペース配分が必要な種目は多いし、一瞬へ集中力のピークを持っていくのもある種のペース配分だと思うし。ただし、これは現状ある手札でどう戦うかという話であって、いつまでも手札を増やしたり強化しないままで戦っていても進化はないですね。手札を増やし、補強することありきの戦略なんだってことは忘れちゃいけないと思う。
テニスなんかでも、逆転の厳しい1ゲームは捨てて次のゲームのために体力温存を図ることも多い。そういうやり方もあっていいと思う。常に全力っていうのは一種いいことだし,理想かもしれないけれども,怪我のリスクもあるでしょうし、本来の目的が勝負に勝つことなら、本気を出し続けペース配分に失敗して敗北というのが一番目的達成からかけ離れている。全力にしてもメリハリがあってもいいと思う。むしろあった方がいいと思ってる。
テニスを例にとったけど、他のスポーツでも言えるかもしれない。ペース配分が必要な種目は多いし、一瞬へ集中力のピークを持っていくのもある種のペース配分だと思うし。ただし、これは現状ある手札でどう戦うかという話であって、いつまでも手札を増やしたり強化しないままで戦っていても進化はないですね。手札を増やし、補強することありきの戦略なんだってことは忘れちゃいけないと思う。
2011年10月1日土曜日
登録:
投稿 (Atom)